〈場所:埼玉県さいたま市見沼区~緑区の辺り 散歩日:見沼通船堀 2022年9月30日、さぎ山記念公園・見沼自然公園 2022年1月30日〉
「見沼田んぼ」は、さいたま市見沼区~緑区にあり、約1260haという広大な面積に、田や畑、川と用水、雑木林など、田園風景と豊かな自然が残されている。その見沼田んぼの維持に大きく貢献しているのが、日本三大農業用水としてあげられる「見沼代用水」であろう。
さらに、収穫した米を運ぶため水運も進められ、そのために「見沼通船堀」が造られた。
また、見沼田んぼのおかげで、サギが集団で営巣することになり、かつて繁殖地は国の特別天然記念物に指定されていた。
そもそも「見沼」とは?「代用水」の「代」が意味するのは?そんなことも併せて・・・。
見沼誕生~見沼用水~見沼代用水~見沼通船堀までの経緯
古代、海面は現在よりも高く、現在の「見沼たんぼ」のある地域は東京湾とつながる入り江であった。その後、約6000年前を境に海が後退し、入り江が東京湾と分離して、無数の沼・湿地が生まれた。その一つとして見沼が誕生した。
江戸時代初期、利根川と荒川は合流して東京湾に流れ込んでいたが、氾濫を繰り返しており、また新田を開発することから、利根川東遷と荒川西遷の大土木事業が行われた。
利根川東遷と荒川西遷 ※出典元:さいたま市「見沼たんぼのホームページ」(掲載承諾済)
大河川が遠のいた当地では水不足が懸念され、八丁堤と呼ばれる堤防を築き、農業用水を貯めておく大規模な溜井(ためい)を設けた。見沼溜井から水を引く「見沼用水」のおかげで周辺の新田開発が進んだが、次第に見沼溜井だけでは新田開発に追いつかなくなり再び水不足になった。
その後、1727年(享保12年)、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する大工事を行った。
利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれた。見沼代用水は、取水口(行田市)の利根川から見沼まで全長60km、末端(東京都足立区)までは84.5kmにも及んだ。
米が収穫できるようになったことから、年貢米として江戸に運ばれることになり、そのために造られたのが、東西の見沼代用水と芝川を結ぶ「見沼通船堀」で、井沢弥惣兵衛為永によって開削された。(さいたま市のWebサイトから抜粋しまとめたもの)
ちなみに、「見沼自然公園」には、井沢弥惣兵衛為永さんの像が建っている。(左は今年の1月30日、右は10年前の2月4日で夕陽が差す時刻)
為永は紀州の生まれで、紀州藩士時代に多くの土木事業を成し遂げ、8代将軍吉宗のときにその技が認められ、江戸に呼ばれ旗本になった。享保の改革に伴う新田開発や河川改修に尽力を尽くした。主な事業には、武蔵国(当地)の見沼開拓・見沼代用水開削、多摩川改修、下総国の手賀沼の新田開発、木曽三川の改修計画、鴻沼の干拓などがある。
見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)
国指定史跡「見沼通船堀」は1731年(享保16年)に完成した閘門式運河(こうもんしきうんが)で、大正時代の末頃まで利用されていた。
東西の見沼代用水と芝川は、その水位差が3mもあったため、芝川の東西に2ヵ所ずつ閘門を設け、水位を調整して船を通した。
閘門式運河で有名なのは、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河であろう。規模は比較にならないが、パナマ運河は1914年の完成なので、見沼通船堀はパナマ運河よりも183年も前にできていた(先輩だ)。
見沼通船堀は閘門式運河として、日本有数の古さであり、江戸時代中期の土木技術の高さが評価されている。また、近世の土木技術、流通経済を考える上で貴重なものとされ昭和57年(1982)に国指定史跡となった。(現地説明板、市のWebサイト参照))
芝川の八丁橋と並行する歩行者専用の橋から北側を見る。左側の小さい橋のところが見沼通船堀西縁、右側は藪で分かり難いが電柱と電柱の間に見沼通船堀東縁がある。
今回、見沼通船堀東縁を進むと、最初に見えるのが「一の関」という水門。
その先に「二の関」。通船堀に水は通ってない。用水側で水を止めているのだろう。
一の関と二の関の間は閘室(こうしつ)にあたり、2つの水門(関)に挟まれた水路に船を収容して水位を上下させる部分になる。閘室内には堀の幅が広くなっている部分(舟溜り:ふなだまり)があり、用水へ上る船と芝川へ下る船がすれ違うことができる。
関の中央にある太い木枠を鳥居柱といい、ここに角落(かくおとし)と呼ばれる板を取り付けたり、外したりして水位を調整する。角落の大きさは、長さ11尺(約333cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ2寸(約6cm)の細長い形。
見沼通船堀の開削、特徴、構造、通船のしかた、閘門開閉のしかたなどは、さいたま市Web「見沼通船堀のしくみ」が参考になる。
https://www.city.saitama.jp/004/005/006/008/p077111.html
鳥居柱に沿って角落を設置するようだが、板を差し込むようなミゾは見あたらない。どうするのだろう?疑問に感じたが、どうやら水の流れを利用し、水圧で留めていると解った。
角落は9枚積んで高さは162cmになる。2つの関で高低差3mを乗り切るわけだ。
一の関では、毎年8月に閘門開閉の実演をしているらしい。(←リンクの動画参照)
二の関の上流側は、堀が浅い。用水側の方が水位が高いし調整が効くので、これで充分なのだろう。
水神社、鈴木家住宅
八丁橋のたもとには「水神社」がひっそりと佇んでいた。見沼通船堀のおかげで、江戸と代用水路縁辺の河岸の間で荷物を運ぶことができ、当地には河川輸送に携わる方たちが住んでいた。水神社は、その方たちが水難防止を祈願して祀ったもの。
本殿は関東大震災で全壊してしまい、翌年に再建されたもの。国の史跡に追加された。
荷物は、見沼で取れた米(年貢)などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や塩、酒などの商品が水上交通によりもたらされた。
対岸の近くには、同史跡に追加された「鈴木家住宅」がある。鈴木家と高田家は見沼開拓事業に参加し、見沼通船堀の完成と同時に両家は差配役に任じられ、当地で通船会所を持っていた。
その後(文政年間以降)住まいも同地に移した。現存する住宅は、このころの建立で、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物とされている。
さぎ山記念館
さいたま市緑区の「さぎ山記念公園」は、敷地面積43,500㎡、1986年(昭和61年)5月に開園。キャンプ場・BBQエリアもある。名前から、サギ山を記念したと分かるが、そのサギ山とは何だろう?と思っていた。修景池(釣り可)の脇を抜けて先に行くと、「さぎ山記念館」があった。
中に入ると無料の展示室がある。ガラスケースの中の壁面には昔の写真等が展示されている。
展示とさいたま市Webサイト(見沼田んぼのホームページ)によると、この付近(地名が「野田」)は、かつて「野田のサギ山」と呼ばれる1.4haものサギの集団営巣地だったという。
見沼田んぼの開発により、サギの恰好な餌場が出現したのが原因の一つ。当時浦和周辺は紀州徳川家の鷹場であり、サギ山は御囲鷺として保護されていた。
明治・大正の頃は、禁猟区としてサギ山は保護され、1938年(昭和13年)には国の天然記念物に、1952年(昭和27年)には「野田のサギおよびその繁殖地」として国の特別天然記念物に指定された。訪れるサギは5種類でチュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギ、チュウダイサギ。
1957年(昭和32年)頃に営巣は最盛期を迎え、巣の数は6000個超。しかし、その後は激減。1972年(昭和47年)にはサギが営巣しなくなり、250年間にわたるその歴史に幕を閉じた。1984年(昭和59年)には、国の特別天然記念物の指定が解除された。
250年の歴史を閉じた野田のさぎ山を記念してつくられたのが当公園だった。
展示によると、有料の展望台も作られていた(高さ15m)。チケットもあった。
「昭和37年頃のさぎ山風景」の写真もある。山林の中で白くなって点在しているのが、営巣しているところであろう。
広大な見沼たんぼは、ドジョウ等の魚介類や昆虫類の宝庫であり、営巣に適していた。
サギが営巣しなくなった原因としては、「農薬の使用による餌の減少、住宅の増加による竹林の減少、道路整備による交通量の増加、餌場となる水田の減少などにあると考えられている」という。
国の特別天然記念物になるほどのサギ山を、今では写真や記録で想像するしかないけど、できるなら一度見てみたいものだ。周囲ももっと長閑だっただろう。
ところで、さぎ山記念館の入口付近に大きな木彫りの象さんがいる。高さ2.7m、長さ2.4m、重量1.3トン。タイの樹齢1500年以上、径3.1mのチークが原木。彫刻に6.3年。地域のライオンズクラブが寄贈したとの説明はある。
何故ここに象さん?タイから運んできたの?何のつながり?等々分からないけど、一見の価値はある・・・かもしれない。
見沼自然公園
さいたま市緑区の「見沼自然公園」は、広大な見沼田んぼ(田園地帯)の一角にある。敷地面積は109,000㎡、平成6年(1994年)3月開設。池や林など自然にあふれている。
訪れたのは1月末なので、野鳥が見やすい時季だった。カモやバンなどの水鳥の他に、シメ、ツグミ、カワラヒワ、ホオジロ、モズ、カワセミなどを見ることができた。
コメント