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吉見町:国指定史跡「吉見百穴」と「松山城跡」、「岩室観音」

〈場所:埼玉県比企郡吉見町 散歩日:2022年9月25日〉
埼玉県比企郡吉見町は、埼玉県のほぼ中央に位置し、南部は川島町、西部は東松山市、東部は鴻巣市と北本市、北部は熊谷市に隣接する。吉見町の観光スポットといえば、第一に国指定史跡の「吉見百穴」だと思われる。
とはいえ、全国的に有名ではないと思うので、他県の方には聞き覚えが無いと思うが、埼玉県に住み始めて案内標識などから吉見百穴のことは自然と知ることになり、数十年前に立ち寄ったことがある。今回、吉見町プチ観光をするに際し、改めて訪れようと思った。

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吉見百穴(よしみひゃくあな)

古墳時代の後期~終末期(6世紀末~7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年(1923)に国の史跡に指定されている。当地の丘陵一帯は掘削に適した凝灰質砂岩で、当時の人々はこうした場所を選んで横穴墓を造ったと考えられている。
明治20年(1887)に全面発掘を行い、237基の横穴墓を発掘した。その後、地下軍需工場が作られる際に壊されてしまい、現在確認できる横穴墓の数は219基となっている。
(現地の説明資料・吉見町Webサイト等参照。以下同様)

横穴の壁際には10~20センチ程のベッド状の施設(死者を安置した部分)が複数造られているものがあり、一つの横穴墓には複数の遺体を埋葬したことがわかる。また、横穴墓の入口には石板(閉塞石)が立てかけられ、埋葬後も横穴に入ることを可能にしている。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」が行われていたと考えられている。
穴の入口は径1m程で、内部はもう少し広くなっていた。見た限りで奥行きは3~4m程。

斜面は急で45度程度はあると思われる。一口に埋葬するといっても難儀なことだろう。

上の方には見晴らしのよい展望台のような場所があった。富士山は雲に隠れていたが、遠く秩父の山々が望める。画の中央は(ズームで見たら)武甲山のようだ。
なお、最上部は平地があり、無人の売店があった。

斜面下には、横穴墓とは明らかに異なる大きな穴(開口部)が数か所あった。
これは、昭和19年~20年(1944~1945)に造られた、地下軍需工場の出入口。画の金網が張られた穴は、ヒカリゴケの生息地。

このヒカリゴケ(光苔)は、山地に多く、平野にあるのは、植物分布上、極めて貴重とされ国指定天然記念物となっている。
穴の床や壁からかすかな緑色の光を発していた(わずかな光を反射していた)。

地下軍需工場跡は、数年前まで内部を見ることができたが、現在は、点検・調査のため立入禁止になっていた。(残念!)
出入口のフェンスの隙間から内部を見る。奥の方には照明が灯っていた。

第二次世界大戦の末期、中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1,300m部分。しかし、本格的に稼働する前に終戦となり工場は閉鎖となった。

吉見百穴部分の地下工場の模式図によると、この部分だけでも幅約190mあり、碁盤の目のように彫られている。いったい全体では、どれほどの面積になっているのだろう。

吉見百穴の広い駐車場の向こうは、堤があって市野川となる。本来、市野川は蛇行し百穴に近い位置を流れていたそうだが、工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、川を真っ直ぐに改めたという。
実際、桜並木がある堤に沿って川は真っ直ぐになっている。

資料館裏手の土産物屋の店主は、百穴の地主ということで、店内の奥の方には発掘時のモノクロ写真や資料、埋蔵物の一部も置かれていた。ついでにいろいろと説明してもらった。市野川の改良工事のことも店主に聞いたもの。感心のある方は、店主が暇そうにしていたら気軽に声をかけてはいかがだろう。
ちなみに、土産にはお薦めの埼玉銘菓「五家宝」を買った。1個売りからあり求めやす。

〔この横穴は何の穴?の経緯
江戸時代の中頃には数基の横穴が開口しており、地元の人々からは「百穴(ひゃくあな)」と呼ばれていたが、その性格については不明だった。
明治20年の発掘後、関わった東京大学の方は、この穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものと発表した。しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであるとが明らかになった。

昔、コロボックルのTVアニメがあり、その名前は知っているけど、土蜘蛛人というのは初めて聞く。個人的には面白い解釈だし、ロマンだな~と思う。

資料館の隣に正岡子規の句碑があった。明治24年(1981)11月、当地を訪れた正岡子規が詠んだもの。「神の代は かくやありけん 冬籠(ふゆごもり)」とある。意味解釈の記載はないが、当時は“住居説”だったので、冬の百穴を神の住居に例えたのだろうか・・・。

松山城跡(比企城館跡群の一つ)

松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城、平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)と共に加わり、『比企城館跡群』として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。(資料等参照)

吉見百穴で頂いた、松山城跡のパンフレットの表紙を拝借。三方が市野川に囲まれているのが分かる。

築城に関する文献資料は極めて乏しく詳細は不明。歴史的には、小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。
特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。
松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。

現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っているという。
国道沿いの本曲輪入口から上り始めるが、この山道で合っている?と疑いながら・・・。

狭い林内の山道から急に開けて、山道に比べてかなり幅の広い石段が登場。

その上が本曲輪だった。東西、南北とも45mの広さがあるようだ。

曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪・曲輪四が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧倉跡を始め大小様々な曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空掘と切り落としがあり、城跡の南側の斜面には竪堀も認められるとのこと。市野川もあり、確かに要害だと思われる。
現地の案内図。光の反射のせいで、やや斜めから撮らざるをえなかった。

岩室観音(岩室山 龍性院)

松山城跡の麓に、崖に寄り添うようにお堂が建っている。岩をうがって観音像を祀ったところから岩室観音堂と言い、龍性院の境外仏堂である。

弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4センチ)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の落城に伴い建物の全てが焼失した。
現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に再建したものと伝えられている。
(吉見町のWebサイト参照)

お堂の造りは懸造り(懸崖造り)様式で、規模は異なるが清水寺本堂や長谷寺本堂などと同じ建築様式。石段を上った1階部分の左側は、岩盤と接している。

江戸時代になると、遠隔地を巡礼できない人々のために、地域ごとに完結する札所めぐりが創設された。それほど知られていないと思うが、比企郡内には「比企西国三十三所」があり、岩室観音は比企西国三十三所の第三番である。

また、ここには四国八十八箇所の霊場と同じ88の石仏が祀られており、ここで参拝することで、四国をお遍路するのと同じだけの功徳があるとされている。
左側の岩窟の中に1番から51番、反対側には岩盤をくりぬいた中に52番から88番がある。

急な階段を上ると最初に目についたのは、天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千住札も多数貼られており、額も様々飾られている。

ご本尊が奉ってある側。扉は檻のように見えなくもない・・・。

1階の奥、観音堂のその先には谷筋の急斜面に「胎内くぐり」があるそうだが、当日は地面が濡れていたので、そこまで行かなかった。

吉光院 當選寺(とうせんじ)

松山城跡への本曲輪入口の近くに「當選寺」というお寺があり、道路から多角形のお堂が見えたので参拝してみることにした。
御堂の中には、「承理観世音菩薩」が祀られているそうで、承理=勝利ということからか必勝祈願・合格祈願で訪れる方もいるとか。

訪れた場所:マップ

北から南に流れる市野川の東側、吉見町と東松山市の境界付近に「吉見百穴」「松山城跡」「岩室観音」などがある。関越自動車道東松山ICから鴻巣方面へ約5km、15分弱。
車利用の場合は、吉見百穴(無料)駐車場にとめて各所を散歩できるので、百穴や地下軍需工場だけではなく、他の史跡やお堂なども訪れてはいかがだろうか。

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吉見町埼玉県
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風彩散歩 日記

コメント

  1. ディック より:

    吉見百穴って、小学生の頃に父に連れられて行ったことがある、と記憶しています。
    記事を拝見して「ここはそういう場所だったのか!」と…。
    そもそも1枚目の写真、ちょっと異様な風景で、「いったいなん何だろう」と思うではありませんか。観光地はいろいろとあっても、こんな景色はなかなかありません。
    下のほうには軍需工場もあったのか…、中を見られないのは残念ですね。

    風彩散歩日記は、おもしろいけれど、コメント欄はどこにあるのか? とか、いろいろと戸惑います。この日記にそもそもどうやって来たのか憶えていなくて、今回、ようやく「あ、ここにリンクがあったのか」という具合でした。
    ようやくわかってきたので、またちょくちょくうかがいます。

    • ふうさい ふうさい より:

      ディックさんこんばんは。
      小学生の息子を「百穴」に連れていく・・・。比類のない横穴墓だと思いますが、何か考えがあってのことでしょうね。素敵なお父様ですね~。
      たぶん今よりも前の方が観光客が多かったのではないかなと思います。百穴の最上部の売店も常駐だったのではないかなと想像します。軍需工場も見られたでしょうしね。
      当日記のいろいろ分かり難いことには、まったくもって申し訳ありません。ワードプレスはテーマ(テンプレートのようなもの)に因ることが多いのですが、本人もどうしたらよいのかよく分からないまま進めています。「こうしたら。あーしたら。」という意見がありましたら、是非聞かせてください。よろしくお願い致します。
      コメントありがとうございます。

  2. ディック より:

    岩室観音の感想もここでよいのでしょうかね。
    この岩室観音、なんだかすごい建て方をしているなあ、と写真として面白さを感じます。
    それと、鎌倉時代の比企尼が出てきた比企氏への興味と、こどもの頃に一度吉見百穴へ来たことがあるのとで、なんだかとても興味をひかれていまして、この一連の記事の場所へ、来てみたいなあ、と思っている次第です。
    実現できるかどうかは、私自身ではなくて、双子の孫たちとの同居など、現在のいろいろと制約のある生活環境のほうなのですが…。

    • ふうさい ふうさい より:

      ディックさん、こんばんは。
      岩室観音はけっして規模は大きくないのですが、懸造り(懸崖造り)様式は一見の価値があると思います。といっても、ここだけでなく、やはり百穴とセットがお薦めですね~。
      生活環境は、いつか変わらざるをえないこともあるでしょうから、今は“待ち”で、“じっと我慢の爺であった”状態が◎なのでしょうね。

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